遠見岬神社へようこそ

当社は、房総半島に技術と文化をもたらした天冨命をお祀りする古社です。
その御由緒ははるか昔、初代天皇・神武天皇の御代のお話しまで遡ります。
四国から房総へと渡られた天冨命は関東全域の発展に寄与されました。
そして技術の伝承ののちに当地に住まわれたと伝えられます。
江戸時代になると勝浦は、「勝浦三町江戸勝り」と例えられたほど繁栄するに至ります。
時が下った現在では、レジャーや観光、街全体が雛人形に彩られる
『かつうらビッグひな祭り』など、全国から人々が集う地となりました。
勝浦の地を古くより見守り続ける天冨命は今も人々をお守りくださっております。

遠見岬神社ものがたり、一章:関東を開拓した神様・天冨命

 当社の御祭神・天冨命(あめのとみのみこと)は忌部氏(いんべし・斎部氏)という一族に属します。忌部氏とは、天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖とする一族で、中臣氏とともに朝廷の祭祀を司り、祭具の製造や宮殿・神殿の造営などを行う名門氏族でした。

 平安時代に書かれた神道資料『古語拾遺』によると、始祖の天太玉命は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子と伝えられています。高皇産霊神の娘と結婚して生まれたのが、天皇家の祖先・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)です。瓊瓊杵尊が天照大神より地上を治めるように言われ、地上に降臨した際に天太玉命も従いました。天冨命はこの天太玉命の孫にあたる神様です。

 天冨命の御実績の一つを『古語拾遺』に見ることができます。初代天皇である神武天皇は東征を終え、都を橿原(奈良県)につくる際、天冨命に皇居を造営するよう命じました。そこで天冨命は、手置帆負命(たおきほおひのみこと)の、彦狭知命の二柱の神様の孫を引き連れて「斎斧(いみおの=神聖な斧)」、「斎鋤(いみすき=神聖な鋤)」を使い、初めて山の木を伐り、正殿を築きました。そして、各忌部氏族を率いて種々の神宝を作るように命じ指揮したのです。この時、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の孫は天冨命に従い、阿波国麻植(後の麻植郡)において祭祀に使用する麻や「穀」(かじ=こうぞの一種、和紙の原料となる)の栽培をし、阿波忌部氏となります。その他、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖とする出雲国の玉作氏(たまつくりし)、彦狭知命を祖とする紀伊忌部氏、手置帆負命を祖とする讃岐忌部氏、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖とする筑紫国・伊勢国の忌部氏など、忌部氏は開拓のため各地に広がり、多数の氏族に枝分かれしていきます。

二章:房総半島に渡り、文化を伝える

 天日鷲命の孫たちを従え、阿波国の開拓をした天冨命は、さらに豊かな土地を求めて阿波忌部氏の一部を連れて海を渡ります。黒潮にのって東へ、やがて着いた土地が今の房総半島です。上陸した御一行はさっそく麻や「穀」を植えました。すると特に麻の育ちがよく、麻の古語である「総(ふさ)」から総国と命名しました。上総国、下総国という名称もここから由来します。また居住地には、祖神である天太玉命の社(現在の安房神社)を創建し、以前いた四国の阿波国の名をとって「安房」と名付けました。今でも房総半島に阿波国と同じ地名が多数あるのはこのためです。

 安房の開拓を終えた天冨命たち忌部氏は関東の開拓に乗り出します。房総半島を北上し関東一円に麻や「穀」を植え、養蚕や織物、製紙などの技術を伝えました。開拓を終えた天冨命は当地においでになり、遠見岬(現在の八幡岬突端)に住まわれ、先住民たちに漁業や農業、建築などの技術を教えました。現在、全国的に有名な勝浦漁港ですが、これも天冨命の御事績といえます。

 天冨命が当地にお隠れになると、天日鷲命の後裔である阿波忌部氏の勝占忌部須須立命(かつらいんべすすたつのみこと)が冨貴島に社殿を建立し、開拓の祖神として御神霊をお祀りしました。これが当社の創建と伝えられています。また勝占忌部が住んだことからこの地は勝占(後に、勝浦・かつうら)と呼ばれるようになりました。勝浦は、天冨命が最後に住まわれた神聖な地なのです。

 現在、当社に残っている最も古い記録に承和二年(八三五)の正殿修理の記述がありますが、度重なる津波・火災により古文書の多くが失われたため詳細は定かではありません。しかし、大化の改新以後、律令制度によって総国は上総国、下総国の二つに分けられ、後に上総国から安房国が独立。勝浦は安房と上総の境界の上総側に入りました。

 都に残された木簡から当時の勝浦の様子が垣間見えます。木簡には、上総国から都へ運ばれた品物として、特に鮑が多く運ばれた記述が見られます。また、勝浦市守谷(もりや)のこうもり穴遺跡から、三世紀頃の鮑殻が多量に出土しました。

 鮑は宮中での祭祀に用いられ、殿上人に珍重された貴重な海産物でした。現在でも、鮑は勝浦の名産の一つ。当時から勝浦が漁業の町であったことがうかがえます。

 そのため当社においても、「船霊様」の信仰が古くから残っています。船霊様とは、船に宿る神様のことで、海での漁や航海の安全を祈ります。古くは天冨命が伝えた麻で作られましたが、嘉永五年(一八五二)頃に人形の形に変わりました。当時から、当社も漁の無事を祈願していたことでしょう。

三章:勝浦城建設 海上の要衝として発展

 天慶二年(九三九)、平将門が朝廷に対して乱を起こします(承平の乱)。その際に、将門の参謀格であった興世王が勝浦に砦を築き、これがのちの勝浦城のもととなったとも言われます。鎌倉時代になるとこの砦は上総広常の支城となります。源頼朝が関東の経営に乗り出すと広常も頼朝に従います。しかし、謀反の疑いをかけられ謀殺され、上総は千葉氏や三浦氏に分配されました。

 また一説には、大永元年(一五二一)に真理谷武田氏によって築かれたとも言われます。現在見ることができない勝浦城を古地図によると、八幡岬から鳴海神社、その下の恵比寿地区まで、南北に長細い形状となっています。天文十一年(一五四二)には、勝浦正木氏の初代正木時忠が勝浦城に入城。二年後の天文十三年に、真理谷武田氏は滅亡します。その後、二代時通、三代頼忠の居城となり勝浦正木氏の統治が続きますが、天正十八年(一五九〇)、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡すると、勝浦城も本多忠勝や植村泰忠らの軍勢に攻められ落城しました。この時、頼忠の息女お万は炎上する城から母と弟を連れ八幡岬の断崖に白い布を垂らし海に下り、小舟で館山方面に逃れました。現在も八幡岬には「お万布ざらし」の伝承を伝える「お万の像」が建てられています。逃れる際には当社の側を通りぬけていったことでしょう。御祭神の加護篤く、お万は無事逃れのちに家康の側室となり、紀伊徳川家藩祖・頼宣、水戸徳川家藩祖・頼房の二子を産みました。

四章:現在地に遷座 庶民の生活を守護する

 新たに勝浦を治めることとなった植村土佐守泰忠は、城下の整備に乗り出します。泰忠は半島西側に家臣団を住まわせ、これが現在の中心街のはじまりとされています。また日本三大朝市のひとつとして知られる勝浦の朝市が開かれ、商業発展が進められました。

 慶長六年(一六〇一)、津波により当社の社殿が流され、社宝の多くが失われました。この時、一緒に流された御神体は、尊磯(たかいそ・現在の火防稲荷神社付近砂浜)に流れ着き、発見した住民が「大明神、大明神」と連呼しながら、急いで地元名主の家まで抱えて走り、名主は御神体を白布で巻き、麻で縛り、さぞ寒かろうと甘酒、焼き米をお供えしたと伝えられています。

 この逸話を色濃く残したお祭りが今でも秋に行われています。一年で最も重要な祭典である例祭に、名主の末裔より奉献された、麻、晒し布、和紙、甘酒、焼き米などが様々な神饌と共にお供えされます。そして神幸祭では、神輿が氏子町内を巡った後、社殿が流された際に御神体が流れ着いた尊磯まで渡御されます。尊磯に到着すると、宮司による神事が執り行われ、その後、「でんみょり」という掛け声と伴に遠見岬神社まで神輿を担いで走ります。「でんみょり」とは、「大明神」が訛ったものと言われています。

 御神体は、流れ着いた社殿の一部と流木で仮宮を建て、一時期宮谷に祀られましたが、萬治二年(一六五九)、三代泰朝により現在の地に遷座されました。

 現在地は町屋の中心であり、現在も当社の入り口では朝市が催されております。冨大明神と呼ばれ、縁起良い名前から市の発展を当社に祈願したのでしょう。また遷座の年に植村氏は勝浦湾北方の串浜字新田内台に新たな館を築いて移りました。そのため、領主に代わって町の守護を祈願したとも考えられます。勝浦城を海上から守護していた当社は城下に還り、人々の生活を間近に見守ることになったのです。

 その後、宝暦元年(一七五一)六代恒朝は改易となり、代わって大岡出雲守忠光が治めることとなります。宝暦六年(一七五六)に大岡氏は岩槻藩(現在さいたま市岩槻区)に移ったため、勝浦には陣屋(役所)を置き統治しました。前記の船霊様が麻のものから人形に変わったのが嘉永五年(一八五二)のこと。人形の生産地として知られる岩槻の文化が統治にももたらされたと考えられます。人形が使われた船霊様は全国的にも珍しく、特殊神事となっております。勝浦の町は発展を続け、「勝浦三町江戸勝り」「江戸をみたけりゃ勝浦へ御座れ」とも呼ばれるようになります。

五章:遠見岬神社に改称 そして現在

 激動の幕末が終わった明治四年(一八七一)、新政府の社格制度の発令で遠見岬神社と改称され郷社に選定されました。江戸末期から明治にかけて、勝浦の町の発展とともに当社の祭礼も華麗なものへと変わっていきました。今も残る祭りの屋台は漆塗り、金箔、見事な彫物が施されており当時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

 明治二十二年(一八八九)町村制の施行によって、勝浦村が誕生、翌年には勝浦町となりました。明治四十四年(一九一一)にはそれまで毎年九月望(満月)の日に行われていた例祭が九月十三日に改められました。大正二年六月二十日には勝浦駅が開業すると、人や物資の流通が盛んになり、朝市が毎朝開かれるようになったのも明治から大正にかけての期間と言われています。また海水浴場として、観光客で賑わうように旅館等が建ち、観光としても発展していきます。

 昭和三十三年に千葉県十八番目の市として勝浦市が誕生しました。現在では、カツオの町として知られるとともにサーフィンのスポットや史跡めぐり、名物の勝浦タンタンメンなどを目当てに、多くの人々が訪れる観光地となりました。

 特に二月下旬から三月に行われる「かつうらビッグひなまつり」では四十万人もの観光客が訪れます。平成十三年から開かれているこの祭りは、御祭神ゆかりの徳島県勝浦町から七〇〇〇体のひな人形を譲り受けたことからはじまります。勝浦の名所でひな人形が飾られ、当社では六十段の石段に一二〇〇体のひな人形が並び、一番の目玉スポットとして多くの観光客で賑わいます。観光・漁業の町として発展した勝浦を今も当社は見守り続けております。

四季を彩るお祭り

例祭日

「九月」第三土曜日、例祭・神幸祭(神輿渡御)、日曜日、屋台曳き廻し、月曜日、屋台曳き廻し、船渡神事、毎月一日、月次祭、新月の日 新月祈願祭

主な祭典

「一月」一 日、歳旦祭、初旬、初詣・仕事始め参拝、十一日、明神講、十五日、八幡神社初祈祷、二十日、西宮神社二十日えびす

「二月」初午、火防稲荷神社初午祭、節分、節分祭、上旬、人形感謝祭、十一日、紀元祭、十七日、祈年祭、第三土曜日、潮祭り、下旬 、~

「三月」上旬、かつうらビッグひなまつり、「六月」三十日 夏越大祓式、「九月」十一日、明神講、十五日、八幡神社例祭

「十一月」十五日、七五三詣※ご祈願期間、「十月~十一月末」二十三日、新嘗祭、「十二月」三十一日、年越大祓式

※都合により変更になる場合もございます。

おみくじ

金女みくじ(左)、勝男みくじ(右)

当社おみくじ。男性向けの勝男(かつお)みくじと、女性向けの金女(きんめ)みくじ。当社社務所にてお受けいただけます。

遠見岬神社のご案内

  • ◆授与所(おみくじ/お守り/朱印) 9:00~17:00(都合により留守の場合があります)
  • ◆祈祷受付 9:00~17:00 (ご遠方の方はお電話でご相談下さい)
  • ◆定休日 なし
  • ◆駐車場 10台
  • ◆住 所 〒299-5233千葉県勝浦市浜勝浦1番地【アクセスマップ】
  • ◆電 話 0470-73-0034
  • ◆FAX 0470-73-2007
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